緊急事態宣言解除
ついにと言うかやっと緊急事態宣言が全面解除となりましたね。
待ちに待ったと言う方も多いのかと思いますが、これでもう安心という訳では勿論ないので、これから温かくなるにつれてイベントも多くなる季節を迎え、どうしようかと考えている方も多いと思いますので、今回は緊急事態宣言解除後のコロナ禍生活をテーマに語っていきたいと思います。
まず初めに言っておかなければいけないのが、コロナ関連についてネット上で意見すると何かと反対意見や批判を浴びる事もあるかと思いますので、前もって言っておきますが、これから書かせていただく事は全て私寅八の個人的意見です。
これが正しいとかこうすべきという事ではありませんので、どうかご理解ください。
さて、先程も言いましたがこれから、春休みや花見などのイベントの季節。また更に先にはGWといろいろ予定も計画し始める季節かと思います。
そんな矢先の緊急事態宣言解除でタイミングが良いと思う人もいれば、人出が増える事で、コロナ感染リスクが上がるのでは?と不安になる人など様々ではないでしょうか?
はたして、この時期イベントを行うべきなのか、感染リスクを避ける為自粛すべきなのか判断が難しく、悩むところですよね。
そこで私の個人的意見としては、結果から先に言えばイベント開催は『あり』だと思っております。ただ、それにはいくつかの条件が前提になると考えますが、その条件を挙げる前に何故、この時期のイベント開催は『あり』だと思うのかという事について、話したいと思います。
それは、コロナの脅威が完全になくなるには未だ数年はかかるだろうと思うからです。
コロナがインフルエンザ並みまで脅威レベルが下がるには、やはり誰もがワクチン接種うが可能になり、感染したとしても数日で完治できるような特効薬が出来る状況にならないといけないと思うのですが、それにはまだまだ時間がかかるでしょう。
であれば、そのまでの間どの様な状況(感染者数の動向が)であっても、全ての人に自粛を求めるのは到底無理だと思うのです。
そこで、そんなコロナ禍でイベントを開催する場合の条件ですが、先ずやはり何と言ってもマスクの着用・ソーシャルディスタンス・三密の回避など基本的な対策はしっかり実施する事が大前提でしょう。
次に感染者数の動向を意識する事。これが大切なのではないかと思います。
状況が悪化した場合は、速やかに中止や延期の対応をする事もあらかじめ視野に入れておく必要があると思います。
また、イベントを開催を企画する場合は上記のコロナ対策や対応をしっかりメンバーに伝えた上で、あくまでも自己責任・自主判断で参加、不参加を決めてもらう旨を伝えておくことも重要かと思います。
これから、一番注意すべきはやはり緊急事態宣言解除後のリバウンドを防ぐ事。
本当に緊急事態宣言が再発令されるか解除が続くかで、生きるか死ぬかというくらい切羽詰まった方々も沢山いるでしょう。皆がイベント等を楽しめるためにもしっかりコロナ対策を心がけていきましょう!
【寅八のつぶやき】
まだまだコロナの脅威は続くので、油断せずにしっかり対策!
その上で各自、自己判断で楽しむべし!
常識
私が普段、軽はずみに使わない様にしている(使うのに気をつかう)言葉。
それがこの『常識』という言葉です。
『常識』をウィキペディアで調べてみると、「社会を構成する上で当たり前のものになっている、社会的な価値観、知識、判断力のこと。また、客観的に見て当たり前と思われる行為、その他物事のこと。」となっている。
ただ、会話の中で使われる場合。その常識の判断基準が、話し手の個人的なものとなっている場合が多々ある様に思われませんか?
決して間違った事は言って無いにしても、『常識』と言ってしまって良いレベルかどうか?ただ単に、こう考える人が多いって言うレベルで、『常識』と使ってる場面を見聞きする事は無いでしょうか?
では何故、私が軽はずみに使わない(使うのに気をつかう)のかというと、もしそれを言われた人やその話を聞いていた人が私の言った常識と違う意見や違う行いをしている人が居た場合。その人は常識が無い人(非常識)な人という事になって、そういう意識が自分には無くても、相手を批判している事となってしまうからです。
また言われた立場になってみても、「自分(周りの人)と考えが違う」と言われるのと「常識ない(非常識)ね」と言われるのじゃ、感じ方が随分違いますし、気分も悪くなりますよね。
前段で話した様に、誰が聞いても間違いないと言う様なレベルの『常識』ならば兎も角、ただ単に自分的には常識だと思うってくらいのレベルの事で使ってしまうと自分とは違う価値観の人には、不快な思いをさせてしまう可能性が多いでしょう。
しかもこの『常識』は、年代や環境によって違う事も理解しておく必要があります。
私の様な昭和世代の古い人間には常識だと思う事でも、今の世の中では必ずしも常識として当てはまらない場合もあったりします。
仕事を休む際の連絡などは、どんなに具合が悪かろうが本人が電話で直接上司に伝えるのが私世代では常識だったのですが、今ではLINE等で職場のLINEグループのメンバーに一斉に伝えるのが、効率的で更に具合の悪い本人にとっても負担も軽く良いと言う意味で普通になってきているのではないでしょうか?
それでも、休む人が直接電話で伝えるのが『常識』だ!などと言っていると、いつの間にか時代遅れの人になっちゃうのかもしれませんよ。(まぁ、私は古い人間なので電話で直接伝えますけどねw)
あと、環境が変われば『常識』も変わる事もあるということも・・・。
私が以前勤めていた会社では、会議などでは携帯電話(今じゃスマホかw)の電源OFFかマナーモードが常識で、緊急を要するもの以外は電話を繋がないというのが常識でしたが、今の会社ではそれが全くなく、会議中だろうが何だろうが通話OKで最初は戸惑いました。
まぁ、これは会社の社長の方針というか、価値観(判断)で社長自らがそうしているからで、そういう社風(環境)になった訳ですが、本当に環境によって常識も様々だなぁと思った私の実体験であります。
では仮に『常識』という言葉をあえて使うとした場合。どういう状況だったら問題ないでしょう?
私が思うに親友の様に気ごころの通じた相手(仲間)であれば、もし自分との考え(常識)とズレがあったとしても「いや、俺は違うけどW」と笑って話せそうだし、特にそれほど気を遣う事も少なくて済むかもしれませんが、逆に注意すべきは、それほど親密でないコミュニティー(職場も含み)での発言では気を使うべきかと思います。
なので、どうか皆さんも『常識』とは世代や環境、人それぞれの価値観で違うという事を理解して使う様にしましょう。(出来れば、あまり使わない方がいいかもw)
では、今日はこの辺で。
【寅八のつぶやき】
『常識』を『マナー』という言葉に置き換えられたら、感じ方も違うかもね。
一期一会
私が普段、大切に感じている言葉ですが、今までに命に係わる病気を経験された方の中には、この『一期一会』という言葉を大事にしていると言う人も多いのではないでしょうか?
『一期一会』とは、『一生に一度だけ』『生涯に一回限り』という意味の言葉で、二度と無い機会と思って、その機会を大切にするという事です。
私もこの言葉を特に意識するようになったのは、やはり大病を経験したのがきっかけでした。
運良く命拾いをして、今もこうして生きていられる事。家族や友人と一緒に過ごせる事は、それまでは当たり前だと思っていました。
それが病気を機に当たり前ではなく、いつ何時終わってしまうかもしれないという事に気付かされ、本当に人との関わり合い。一瞬一瞬が大切だという事に気付きました。
仲の良い仲間との集まりや親友との時間は、何度かあったとしても全く同じ時間(同じシチュエーション)は二度と無い訳で、ましてや自分・もしくは相手の命に係わるアクシデントがその後起きないという保証もないという事であれば、また同じように会えることすら判らない訳で、やはり人との関わり合いの時間は大切にしていく必要はあるのかと。
でも、それはたまに会う友人などに限っての事じゃない事にも病気を機に気付かされた。
そう、毎日目が覚めれば顔を合わせる家族にとっても同様だという事です。
あまりに日常すぎて、本当に当たり前と感じてしまう事ではあるけれど、その家族にだって不意に来るアクシデント(病気や事故など)に襲われたら、それっきりになってしまうのです。
ですから、いつも心に思ってはいるが言葉に出来ていない感謝の気持ちなどは極力普段から言っておくべきなんだろうって思います。(そうは言っても、なかなか出来ないんですけどw)
あと、『一期一会』という言葉を大切に感じる様になってから、同じようにいつも思うのが、友人などとの別れの際に言う『またね!』や『元気でね!』が、単なる別れ際の挨拶の言葉じゃなくなったという事。
それまでは、あまり意識しないで使っていた別れの挨拶の言葉だったけど、短い『またね!』が、今では本当に『是非、またお互い元気で会いましょう!』そんな気持ちを込めた言葉になった。(そういう意識をもって使うようになった)
これからも、『一期一会』という言葉を大切にして、人と接していきたいと思います。
今回は短かったけど、シンプルに言いたい事が言えましたw
【寅八のつぶやき】
今日という日は二度と来ない。自分と関わる全ての人に感謝の気持ちをもって、日々過ごしていきたい。
では、またね!(是非、またお互い元気で会いましょう!)
プライド
あなたは自分自身がプライド(自尊心)が高い方だと思いますか?
それとも、どちらかと言えば低い方だと思いますか?
いや、そもそもそんな事考えた事も無いですか?
ちなみに私は、自分自身はそれほど高い方では無いと思っているのですが、ここ数年で気付いた事は、プライド(自尊心)を傷つけられる事が一番ストレスを感じるという事。
それじゃ、やっぱりプライドが高いんじやないの?と思われるかもしれませんが、本当にそれほどじゃないと思います。
特別自信家でもありませんし、人より能力が高い方じゃ無いですからね。
それでも、年下の人に横柄な態度をとられたり、見下される様な事を言われたりするのは本当に嫌な気分になってしまいます。
もしかしたら、これは男性に多いのかな?(男はプライドで生きているなんて言ったら格好いいですが・・・w)
勿論、女性でもプライドが高い人はいるでしょうが、どうなんでしょう?
自分は女性ではないので、そちらの方は良く判りませんが、男性の方は人によって多少の違いはあるいせよ、確実にプライドを傷つけられる事でストレスを感じる人は非常に多いと思います。
なので、逆を言うと男は褒められたり、持ち上げられたり、自信がつくような事を言われるとやる気が増したり、元気が出てくる訳です。(単純ですねw)
ですから、古臭い言葉で『あげまん』と呼ばれる女性は皆、きっと男性を持ち上げるのが上手なんですね。
プライドが高いというのは、本来悪い意味では無いと思うのですが、実際にはあまり良いイメージじゃなくはありませんか?
それは、どうしてなのでしょう?
やはりそれは、プライドが高い人のイメージ(印象)が悪いからなのでしょうね・・・。
ちなみに私のイメージですが、プライドが高い人は他人を見下す様な言動が多かったり、自分のプライドを傷つけられる様な事があると(ミスを指摘されたり)、激高して人のせいにしたりする人が多いかな?って感じ。
更に言うと、そのくせプライドが高い人ほど他人のプライド(自尊心)を傷つける様な事は平気でしたり、言ったりする人が多い気がします。
『人の振り見て我が振り直せ』です。
自分のプライドを守る事だけに夢中になってませんか?知らず知らずに相手のプライドを傷つけていませんか?または、プライドを傷つけられている人を見ているのにスルーしてませんか?
自分自身を見つめ直してみよう。
【寅八のつぶやき】
プライドが高いことは決して悪い事じゃない!
但し、自分のプライドを大事にするならば、相手のプライドも大事にせよ!
ウルトラウォーキング
今回は前回の『ジョギング』に続き、私寅八が経験して良かったと思える事シリーズの2回目のつもりですが、今回は素直に良かった(オススメ出来る)とは言えないかもしれません(笑)が、知らない方は「へぇ~、そんなのあるんだ~」くらいに気軽に読んでみてくださいませ。
先ず、皆さんは今までの人生の中で、どれくらいの距離または時間を一度に歩き続けた事がありますか?
距離であれば、30Kmくらい?時間だと5時間くらい?でしょうか?
私も、二年前にとあるウォーキング大会に出るまではそんなもんだったと思います。
というか、ウォーキング大会自体参加した経験が無かった私が何故出ようと思ったのかというと、それは正に今までに歩いた事(経験した事)がない距離だったからでした。
その距離は、何と100km!それを朝から夜中もぶっ通しで歩くという(食事もトイレも途中のコンビニなどを利用して行う)、正にぶっ飛びのウォーキング大会で、後に100km以上のウォーキング大会の事を『ウルトラウォーキング』と呼ぶ事を知りました。
私が、そのウルトラウォーキングの大会に出会ったのは、社内報に投稿されたコラムで目にした時でした。
そのコラムには、初めて100kmウォーキング大会に参加して、惜しくも60km地点でリタイヤしてしまった体験と来年の同大会にリベンジを誓うという内容のもので、そのコラムを読んだ時の私の感想は単純に「面白そうだな」でした。
ですが、長い距離を歩く経験は殆どありませんでしたので、約一年後の大会に向けて何はともあれ歩く練習を始めてみました。
そして、まず気付いた事。走るのに比べたら楽だと思っていたけど、先ずは足が長い距離を歩ける状態に鍛えられてない為、歩いた後の筋肉疲労や足裏のマメなどが出来てしまい、ダメージが半端ないという事でした。
最初は、30km約6時間くらいで足が悲鳴をあげましたが、休みの日を中心に歩きこみを続け、日中の間(約8~9時間程度)歩き続けられる様になりました。
あと、社内報のコラムの中にも書いてあったのですが、長距離のウォーキングには足を保護するために軽いランニングシューズではなく、厚底でしっかりしたウォーキング用の靴が良いとの事だったので、靴もウォーキング用の物を準備して特に長い距離を歩く時は必ず履くようにしていましたが、専用の物を身に付けると自然に気合が入ってくるから不思議なんですよ。
多分ここまで読まれた皆さんは、ただ歩くだけってつまらなそう。って思われてると思いますが、やってみるとそうでもありません。
勿論、いつも同じコースであればマンネリになってしまうかもしれませんが、コースを自分で色々考えたりすれば、知っている場所でも歩きのスピードでみる景色は車ばかり乗っている自分にとっては、意外と新鮮で新しい発見も結構あって楽しいです。
なので、トレーニングというよりは、散策という感じで気になった場所にはふらっと立ち寄り、寄り道する事もしばしば。気が付くと帰り暗くなってしまったってこともありましたねw
そして、ウォーキングトレーニングを始めてから約半年が経った頃、いよいよ大会へのエントリーが開始され、目標にしていた大会への参加も正式に決まりました。
ただ、エントリーが決まって間もなく梅雨入りし、天候の為に長い距離を歩く頻度も減り気味になったと思ったら、梅雨明け後は真夏の炎天下。更にトレーニングにとっては厳しい季節が待っていました。
そんな中自分が考えて行ったのが、夜間ぶっ通しウォーキングでした。
真夏の日中は、炎天下で長時間の運動はかなり厳しいですし、いつも昼間に歩いていて本番に必ず体験する夜中のウォーキングも経験しておきたい(暗闇の中をライトなどを使用)というのがその理由だったのですが、どうせやるなら本番の距離の丁度半分の距離(50km)を経験しておけば、100kmという距離も何となくイメージが出来るのではないかと考えやってみる事に。
結果から言うと最初のチャレンジは惜しくも残り7kmくらいでリタイア。
原因は足の負傷(捻挫)と汗による股ズレ発生で、歩けなくなったことでした。
ただ、結果的にはこの時の失敗の経験がかなり本番に役立つことに・・・
先ず、足の捻挫の原因ですが、意外と歩道といっても少し傾斜している所が多く、長い距離同じ様な傾斜の場所を歩いていると一方の足の足首などに負担がかかってしまうので、なるべく平らな場所を選んで歩くと良いという事に気付きました。
また、股ズレやマメ対策としての足のケアも定期的に途中途中で行っていく必要があり、その為の準備(薬等)もいることも判ったことが大きかった。
そんなこんなで、本番の二週間前に再度50kmの夜間ウォーキングにリベンジして、なんとかクリア。
その後本番に臨みましたが、50kmを経験して感じたのは本番の100km完歩への手ごたえを感じたと言うよりは、これでまだ半分の距離(その倍の距離を歩かなければならない)という、不安の方が大きくなってしまったと言うのがその時の本音でした。
本番は一人きりのチャレンジで、唯一途中の休憩ポイントで家族や友人とLINEにて連絡を取り合うのがせめてもの励みでした。
本番のコースは一度も歩いた事が無いですし、未知の距離という事で、本当に途中の70km地点(夜中の3時)くらいで一度心が折れかかり、足が前に出ない状態になってしまいましたが、少し長めの休憩を挟みながら歩き続け、何とか27時間をかけて完歩する事が出来ました。
もう、本当に運動(競技)というよりは、修行じみているというのが、歩き終えた後の素直な感想w
完歩後、ゴールの知らせをLINEでした際に、もらった友人からのメッセージに思わず涙が出てしまうくらいのキツい大会ではあったものの、なかなか普段の生活では体験出来ない物をトレーニングを含め一年がかりで準備し、目標をクリアするという達成感を味わうと言う意味ではやってみる価値は充分あるかと思います。
(ちなみに昨年はコロナの影響で大会は中止されてしまいました)
社内報のコラムを読んだ後の私のように「面白そうだな」と感じた方はいましたでしょうか?
【寅八のつぶやき】
経験したことのない物にチャレンジしてみよう!
たとえ目標達成ならずとも、何か必ず得るもの(努力した事実は無くならない)がある。
できる子・できない子
できる子・できない子と聞くと、そのできる・できないとは何ができる・できないのか?皆さんは一体何を想像しますでしょうか?
やはり、勉強ができる・できないでしょうか?
それとも、運動ができる・できないでしょうか?
はたまた、お手伝いや挨拶など礼儀や一般常識がきちんとできる・できないでしょうか?
まぁ、一言でできる子・できない子と言ってもいろんな捉え方が出来ると思います。
私の二人の娘を見ましても姉妹ながら性格も違えば、得意・不得意も違いますので、それぞれの見かたでできる・できないが違うので、どっちができる子か?とは言えません。
ただ私も約50年生きてきて、自分自身の経験や周りの人達を見てきて、本当に子供のころからできる子が本当に良いか?というのには疑問をもっています。
確かに勉強にしても運動にしても最初から得意で人より出来ていれば良い事も沢山あるとは思います。場合によっては、その得意な分野を更に伸ばして将来の仕事に活かすことも出来るでしょう。
ですが、できない子が出来て、できる子が出来ない事もあります。
それは、できる為の苦労(努力)する経験やできない人の気持ち(感情)を体感する事です。
それを考えた時、本当に最初からできる子ができない子よりも幸せか?とは言えない気がしたので、今回はそんな話を書いてみます。
まず、できる子は吞み込み、理解力が高かったり、素質があるなどの理由で最初から出来てしまうため、どうすれば出来る様になるかを説明するのが苦手だったり、教え上手ではない場合があると思います。
その点、できずに苦労した子は自分が出来る様になった経験を活かして、できない人目線でどうすれば出来る様になるかを伝える事が出来ます。
実際、私が子供の頃の経験ですが、学校でもある程度知られるほどの頭の良い兄が2つ上にいまして、学生時代に母親が「お兄ちゃんに教えてもらいなさい」と言われた事がありましたが、頭が良い兄の教え方だとハッキリ言って意味判らなかったです。(何か教科書の説明ともちょっと違うんですよね。更に上のレベルで解くみたいな・・・)
そんな感じで、スポーツだって大選手が名監督になれる訳じゃないっていうのも、何でも簡単に出来てしまった人が人を育てる事が出来る訳じゃないってことなんでしょうね。
また、できない子が経験した苦労やできないという事への悩みや劣等感などの感情を経験できずに大人になると、傲慢で横柄な態度を取るような人(いわゆる嫌な奴)になる場合が少なくないように感じます。
これも、今までの私の実経験で何度か目にしたというか、実際に体感した事があります。
1つは以前の職場ですが、その職場は非常に忙しく、そのあまりにも余裕なさにたまにミスが出る場合があったのですが、だいたいできる人はできない人に対して「何でこんな事も出来ないの?」とか、その人が忘れてるかもと確認したりした時も「俺を誰だと思ってるの?そんなミスするわけないでしょ!」という感じで、そう言う人は一緒に仕事してても周りにプレッシャーやら不快な想いを与えるなど、優秀ながらも職場にとって必ずしも良い存在では無かったです。
もう一つは、つい最近の朝の部門朝礼での出来事。
朝礼の最後に毎日行われるKYT(危険予知トレーニング)として、とある作業中のイラストを見て一人づつ危険個所をあげる(全部で5つ)場面で最後の人が思い浮かばず、STOPしてしまう事があったのですが、その時の部門長が「危険性をあげるだけなんだから、判らないとかありえないから。はい、あと五秒で答えて。5・4・3・2・1」と皆の前でカウントダウンし始め、答えらえないと答えるまで更にカウントダウンしてたけど。これは、もうハラスメントレベルかと。
こういった大人もやはり、出来ない人の気持ちが判らないがゆえなのかなぁと。
多分、大人になって特に立場的に上に立つ様な人は、そういった事も他人に指摘されることもないので、一生気付かずに過ぎてしまうのかなって思ったら、本当にできる子(人)が幸せでも無いのかなって思ってしまいました。
勿論、できる子(人)の中にもそうでない人もいますが、そうなる可能性もあるので親としては注意していきたいですね。
それと、以前の記事(大先輩のYさん)で書かせてもらったとおり、気付くことの大事さも改めて感じました。
簡単ですが、今回はこの辺で。
【寅八のつぶやき】
できないからと言って悪い事ばかりじゃない。
出来なかった事(経験)を活かせる事がある。
入院中・自宅療養中に感じた事
普段、仕事などで忙しくしているとあまり考えたりしない事でも、思わぬ病気などで入院や療養を余儀なくされるととにかくやる事があまり無いので、時間を持て余してしまい、あれこれと色んな事が頭に浮かんで来て、無意識に色々と考えてしまいます。
今日は本当にどうでも良い事ですが、私が入院中・自宅療養中に感じた(頭に浮かんできたこと)を雑談形式で書いていきたいと思います。
まず、入院中の病室で何となく頭に浮かんできて考えてしまった事から。
”命を脅かす様な病気でなかったり、手術を受けてしまえば治るのが判っている人、とにかくそれほど深刻な状況で入院してない人にとっては感じない事かもしれないけど、たまたま病気になって担ぎ込まれた、自分にとっては縁もゆかりも無い病室から二度と我が家に帰れないと思ったら・・・嫌だなって事。”
良く余命が僅かだと判っている人が、最後は我が家で迎えたいと言うのを聞くけど、何となくその気持ちが理解出来た。
自分でも良く判らないけど、昨日今日初めて来た病室では無くて、愛着のある家で思い出の品々に囲まれた場所で最後を迎えたいと言う気持ちが初めて理解出来ました。
また、良い親をアピールするつもりは全く無いんだけどw
”もし、退院出来たら子供をあの場所に連れて行ってあの景色を見せたい等々、意外にもやりたい事は自分が楽しむ事では無くて、子供の事ばかりだった。(いや、結局それが一番自分にとって楽しめる事なのかもしれないが)”
元気な時は、子供との時間に制限時間などある事などあまり意識しないけど、やっぱり自分の命脅かされた時には、子供との時間を大切にしたいと無意識に感じてしまうということなのでしょうか?
あと、入院中は本当に検査以外は殆どやる事が無いので、ある程度回復してくると食事だけが楽しみなのですが、とにかく病院食はカロリーや味付けが控え目であまり満足出来る物ではないので、テレビなので食べ物の特集などを観るのが辛かった。普段はそれほど感じなかったけど、”入院中はテレビってこんなに食べ物を取り上げたものばかりだったっけ?って本当に感じました。”
ただ、ある程度回復してくると・・・と書いた通り、入院して口から食べ物を食べられるようになった直後は、食事が本当に苦痛だった。お腹は減っているはずなのに食欲が出ない。でも食べないと・・・という感じでしたが、やっぱり入院中はしっかり食べる事が大事だし、逆を言うと食欲が出て来たという事は回復に向かってる証拠と言えるかと。
次に退院して自宅療養中に感じた事ですが、とにかく体力が落ちたことを実感させられる時期。何をするにも疲れやすく、すぐに腰などが痛くなって軽い作業でも長くは出来ない身体になってしまったと気づき、”まるで、おじいちゃんになってしまった様だ”と感じずにはいられませんでした。
何でも、一度落ちた筋力を元に戻すには2~3倍の期間がかかるんだとか。やはり、入院中に医者が許す範囲でいっぱい身体を動かしておけば良かったと本当に後悔したものです。
それと、”家に居ても特に何も出来ず、日課は朝・夕の犬の散歩のみ。なんだか、定年後の自分を見ている様で、これじゃいけないなぁ・・・何か定年後に出来る事を考えておかないと・・・という気持ちにさせられました。”
普段から家の事は妻に任せっきりですから、それもいけないのでしょうね。
定年後に家族の中のお荷物にならないようにしなければ。
そんな感じで、色々と普段は感じない事を考えられたという意味では良い経験だったのですが、多くの事は既に忘れてしまっている事に気付きます。
たまには、こんな風に思い返してみる事も必要ですかね。
【寅八のつぶやき】
人は喉元過ぎれば熱さを忘れるもの。たまに思い返して、今(将来)に活かそう。